木崎原古戦場跡は、元亀3年(1572)に島津義弘と伊東義祐との激戦の場であり、それ以降の相良氏(肥後)を含めた南九州の勢力関係に大きな転機をもたらした(「嗣誠独集覧」によると伊東方560余人、島津方260余の戦死者を出したとされている)。
特に伊東方にとっては、大将伊東祐安・伊東新次郎・伊東又次郎ら名だたる武将が討ち取られるなど、文明17年(1485)の飫肥での戦い以来の大敗北であり、戦国大名として組織の弱点を露呈した戦いであった。以後その支配力は急速に衰え、5年後の天正5年(1577)には、居城都於郡を追われ豊後大友氏を頼って落ち延びることなる。
一方この戦いに勝利した島津氏は、その後三州(薩摩、大隅、日向)制圧の夢を果たし、九州統一を目指して躍進することとなった。
(指定箇所)
・六地蔵幢 ・三角田 ・首塚 ・太刀洗川 ・元巣塚