近代の分県運動を成功させ、県会議長・衆議院議員を務めた川越進(かわごえすすむ)が残したもので、分県運動関係の資料を多く含みます。娘婿の家系である中村家が伝えたため「中村文書」とよんでいます。
明治14年(1881)7月31日付で、川越ら有志は「日向国分県請願書」を内務省に提出しました。嘆願書には、分県を願う理由が記されています。ところが、内務省内で宮崎県の分県は困難という見解が固まりつつあったことを知った川越らは、11月24日に詳細な調査を追記した「分県の儀追伸」を提出しました。この時点での分県は認められませんでしたが、その後も分県運動を継続し、明治16年(1883)5月9日に宮崎県は再置されました。このような経過は「中村文書」によって明らかになっています。「中村文書」は、現在の宮崎県設置を考えるうえで不可欠の資料群です。