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観音瀬水路
( かんのんぜすいろ )
指定者
県
種別
史跡
指定年月日
H17.3.31
所在地
都城市高城町有水1664番地34地先~同1688番地先・都城市高崎町縄瀬5131番地5地先~同5548番地1地先(大淀川河川区域内)
観音瀬とは、高城町有水八久保と高崎町縄瀬上轟の間の急流約100mの総称である。江戸時代に大淀川上流と下流の水運は、この地の岩と滝によって遮断されていた。観音瀬水路は、この岩盤と滝を掘削したもので、都城竹之下から赤江港間の約18里(72㎞)の河川航路を開いたものである。これは、薩摩藩都城領主島津久倫の命を受けた藤崎五百治によって内陸水路の舟運の研究を経て造られた。
寛政3(1791)年から寛政6(1794)年にかけて工事は行われ、主として水量の減る冬場で寒風の中行われ、激流と岩盤との闘いであったようである。薩摩藩は財政困難な時期に約6,000両もの巨額を投じて工事を行い、当時としては画期的な河川開削工事となったようである。
この水路は、明治22~23(1889~1890)年にかけて、県営事業として更にもう一本水路が開削され、以後2本の水路が利用された。
観音瀬は異なる時期に開削した2本の水路としては、他に類例がなく、川普請の技術の跡を伝える史跡として価値の高いものである。
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