宮崎県都城町(現都城市)に生まれる。明治25年都城尋常高等小学校を卒業後、
[狩野派]の
[日本画]家
[中原南溪]に入門し
[日本画]の基礎を学ぶ。明治32年、21歳のとき上京して
[川合玉堂]の門をたたく。その年の
[日本絵画協会]第7回絵画共進会で「水鏡の図」が三等賞を受け、翌年には
[日本画]の巨匠
[橋本雅邦]に入門する。明治36年
[雅号]を都洲から本名の多門に改め、その後新しい
[日本画]を目指していた
[日本絵画協会]や
[内国勧業博覧会]、
[文展]、
[帝展]等での作品発表や審査活動において、名実共に日本美術のリーダーの一人となった。誠実な人柄と強い信念の持ち主である多門の制作活動は、清らかで力強い作品を生み出した。昭和7年、東京都淀橋区において55歳で死去。