- Q宮崎県の「宮崎」とは、どういう意味ですか。
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A
「倭名類聚抄」(東京大学史料編纂所蔵)には、日向五郡の一つとして「宮埼」という名前が出てきます。このように「宮崎」は、古代日向国の郡名にある古い地名です。
「宮崎」の意味ははっきりとしませんが、日高次吉先生の旧版『宮崎県の歴史』(山川出版社)によれば、宮崎の地に神武天皇の宮居があること、「崎」が宮居の所在地あるいは宮居のあたりという意味があることから付いたのではないかと書かれています。 「宮崎県」が最初にできたのは明治6(1873)年のことです。宮崎県という名前を付ける際に議論がされているはずですが、その経緯を記した資料が見つかっていません。 - Q博物館で展示している資料は、本物ですか。
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A
展示している資料は、本物(実物資料)とレプリカ(複製)です。すべて実物資料の方がいいのでしょうが、例えば次のような場合、レプリカを作成し、展示しています。
・当館に実物資料がない場合
・実物資料の痛みがひどかったり、展示することで痛むおそれがあったりする場合
- Q伊東マンショについて教えてください。また、銅像はどこにあるのですか。
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A
伊東マンショ(1570~1612)は、日向国の戦国大名伊東家に生まれました。伊東氏が島津氏に敗れて豊後国に逃れた時に、イエズス会司祭に引き取られ受洗しました。13歳の時に天正遣欧少年使節の正使としてローマへ行きました。
しかし、帰国したときにはキリスト教が禁止されており、厳しい環境の中で布教活動を続け、長崎で亡くなりました。
伊東マンショの銅像は、生誕地である西都市の都於郡城跡と、大分市の遊歩公園にあります。 - Q宮崎の神話について教えて下さい。
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A
宮崎の神話といえば、アマテラスオオミカミの孫で日向の高千穂に降臨しコノハノサクヤヒメと結婚したニニギノミコト、山幸ともいい兄海幸から借りた釣り針をなくして海神の宮へ行き娘トヨタマヒメと結婚したヒコホホデノミノミコト、生まれてすぐに母のトヨタマヒメに去られたのち母の妹と結婚し神武天皇をもうけたウガヤフキアエズノミコトの日向三大神話が有名です。
「神話のふるさと」といわれる宮崎県では、さまざまな神話が残っていますので、すべてをお答えすることはできませんが、何の話を知りたいのかがわかれば、本などを紹介することができます。 - Q平和の塔のことと、四隅にある神像の名前を教えて下さい。
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A
平和の塔は、昭和15年に紀元二千六百年奉祝事業の一つとして建設された「八紘之基柱」のことです。日名子実三の設計で、高さは37mあります。
塔の正面には秩父宮の染筆で「八紘一宇」と書かれています。四隅にある陶製の神像は、荒御霊武人・和御霊商工人・幸御霊農夫・奇御霊漁夫です。戦後、平和の塔と呼ぶようになり、一時「八紘一宇」の文字が塗り込められました。現在は平和台公園として観光地となっています。 - Q博物館で所蔵している佐土原歌舞伎衣裳について教えて下さい。
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A
金糸獅子牡丹文打掛・
赤地流水菊花文打掛博物館では、写真の2点の衣裳を所蔵しています。
佐土原歌舞伎は江戸時代の末に興り、明治時代から昭和初期にかけて佐土原の人たちが行っていた農村歌舞伎です。歌舞伎一座は30人ほどで構成され、三座くらいあったそうです。衣裳を保存しようと考えた所蔵者が博物館に寄贈され、補修を行って現在まで残されています。佐土原町には衣裳が残っていないそうですので、写真の2点は当時の衣裳の華やかさを伝える大変貴重な資料です。 - Q展示室の戦争のコーナーに、寄せ書きのある日の丸が展示されていますが、日の丸はいつ頃できたのでしょうか?
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A
日の丸は太陽神信仰の象徴で、紋章として好まれてきました。『愚管抄』には、平安時代末の源平合戦の際に「皆紅の日出したる扇」が武士に用いられたと記されています。南北朝時代や室町時代には錦旗に日の丸が使われ、近世には徳川将軍家も幕府用船の船印の一つとして、日の丸の旗や幟を立てたようです。幕末に外国船が来るようになり、安政元年(1854)7月に日本総船印として日の丸の幟が定められたことで、国旗としての国際的な意義を持つようになりました。その後、平成11(1999)年に国旗及び国花に関する法律が制定され、日の丸が国旗として定められました。
なお、展示資料は出征時の訓示が書かれたもので、兵士としての心構えを説いています。 - Q自宅の畑から寛永通宝が見つかりました。寛永通宝について簡単に教えてください。
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A
寛永通宝は、江戸時代に最も一般的に使われた代表的な銭貨です。寛永と寛文年間に大量につくられ、その後鋳造された銭貨にも寛永通宝と刻まれ、江戸幕府の金・銀・銭の三貨制度をささえました。はじめは一文に通用する銅貨でしたが、銅の不足から鉄の一文銭や真鍮の四文銭、幕末には鉄の四文銭も鋳造され、種類の多い銭貨でした。
寛永通宝は、最初江戸と近江坂本で鋳造されましたが、すぐに水戸・仙台・長門・豊後など八か所に鋳銭所が設置され、全国で使われるようになりました。日向国では鋳造されていませんが、流通していましたので多くの寛永通宝が残されています。博物館でも、たくさんの寛永通宝を所蔵していますので、畑から見つかった寛永通宝と比べてみることができます。