展示室のご紹介
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48民俗展示室
- ここからは民俗展示室です。
宮崎県は民俗学者の柳田國男が1908(明治41)年に椎葉村を訪れて以来、民俗学発祥の地、民俗の宝庫として知られています。また、宮崎県は東に日向灘、西に九州山地があり、南北に長い形をしており、地域によって地形や気候が異なるため、そこに住む人々の生活や使う道具も様々な特色があります。
この展示室は「山にくらす」「里にくらす」「海にくらす」「いのりとまつり」の4つのコーナーにわかれており、それぞれの地域のくらしぶりを再現しています。
49炭窯
- 木炭は、窯からかき出した真っ赤に焼けた炭にスバイと呼ばれる湿った灰をかける白炭と、窯が冷えてからとりだす黒炭に分けられます。木炭生産の大部分が白炭です。
ここでは、県北部にある延岡市北浦町の白炭づくりの炭焼き小屋を再現しています。黒炭と白炭には窯にも違いがあります。白炭の窯は真っ赤に焼けた炭を棒でかき出すため、その棒の届く範囲で窯を造ります。黒炭の窯と比べるとずいぶん小さく、焼く量も少なくなります。これに対して黒炭の窯は楕円形をしており、窯が冷えてから木炭を取り出すため大きな窯が造られます。
50ツク
- ツクで作業をする人です。雑木林を焼き払って農地を開墾する焼畑農業では、始めに木を切り倒し、枝や幹を小さく切って積み重ねます。切り倒すのが難しい大木は枝を切り落とし、立ち枯れにする木おろしをします。木おろしの時に使う道具がツクです。
ツクは一方の先端に木製カギを付けた竹棹です。一本の木にツクを立て掛けて木に登り、枝を切ります。木おろしが済むと、別の木にツクを掛けて腹這いになって渡って行き、再び木おろしを行います。
ツクは折れる危険性もあり命がけの作業でした。人々はお酒で身を清め無事を祈願した後に作業にあたりました。
51コビキノコ
- 温暖な気候で降水量も多い宮崎県の山地には多くの広葉樹や針葉樹が見られます。かつては道具を使ってそれらの木を切り、牛馬を使って運び出しました。
この製材の作業を木挽きといい、木目に沿って縦に切るためのノコギリのことをコビキノコと言います。刃の形は幅が広く、背は丸みを帯びており、柄は斜めに取り付けられています。またノコの幅が広いので長尺の木材を直線に挽きやすくなっています。
現在では機械化が進み、コビキノコを使って製材する様子はほとんど見られなくなりました。
52作小屋
- かつて宮崎県の山間部では、焼畑農業が盛んに行われていました。焼畑は山の斜面を焼き払って、種を蒔き作物を作る農法です。焼畑の近くに住まいと作業小屋を兼ねた作小屋を建てました。
この建物は西米良村の作小屋をモデルにしています。この家で1年の大半を過ごすので、身の周りの道具はほとんどそろっていました。屋根はカヤと呼ばれるススキなどの植物で作られました。家の中にあるイロリは食事や暖をとる大切な場所でした。右側の土間には、料理をするためのカマドがあります。またフミウスや石臼なども置かれ、作業場としても使われていました。
53山にくらす
- このコーナーは、山にくらす人々の道具やくらしを紹介しています。
宮崎県は、総面積の約4分の3が山地です。ここでは山村での生産活動である炭焼き、お茶作り、木材の切り出し。自然の恵みをとるための狩猟、川漁。カマやノコなどの刃物を打つ鍛冶、竹細工で作られた道具や技を紹介しています。
また、国の文化財に指定された生産用具2,260点のうち、約半数近くが展示してあります。これらの資料は先人達が時間と手間をかけて作った道具ばかりで、人々の知恵・工夫・努力のあとをうかがい知ることができます。
54フミウス
- 昔は、カシの実やクズ、ワラビの根などからでんぷんを取ったり、ドングリを水につけ乾燥した後、粉にしたりするために臼が使われました。
臼は、搗き臼と摺り臼にわけられます。ここに展示してあるフミウスは搗き臼の一種です。
フミウスは横にした木の先端に杵を取り付け足で踏み上下に動かします。精米や製粉、餅つきを行うのに使われました。テコの原理を利用するので力が要らず女性でも作業が可能でした。
フミウスは水車による精米や電動精米所の普及によって姿を消していきました。
55かまいり茶
- 日本人の多くはチャノキから加工される“茶”を飲んでいます。茶葉作りには様々な製法がありますが、このコーナーでは1960年代に宮崎県北部で行われていた、茶葉を釜で炒る様子を再現しています。
茶葉作りは、まず春にチャノキの新芽を摘み取ることから始まります。その新芽を約230度に熱した鉄釜に入れ、しばらく炒ります。葉の先が少し乾いたら引き上げ、手で揉みます。再びかまの中に戻し炒り、そして取り出し揉む作業を数回繰り返します。最後は釜の温度を80度にして、時間をかけて丁寧に仕上げ、“かまいり茶”が完成します。
56カワバオリ
- 宮崎県の山間部では貴重なタンパク源を摂り、作物の被害を防ぐために、イノシシやシカなどの狩猟が行われてきました。猟師は仕事着の上にカワバオリ、手袋と足袋をつけ、イノシシの血が塗られた帽子をかぶり、火縄銃を持って猟にでました。
このカワバオリは、西米良村でイノシシ猟の時などに使用されていたもので、鹿の皮で作られています。イノシシは耳と鼻がよく、人間の気配を察知して身を隠します。鹿皮は柔らかで軽く、人間の匂いを弱められ動いても音が出にくいことから猟に適していました。
57アユカケ漁
- 宮崎県には、東西に流れる多くの河川があります。季節や天候、川の状態に応じて、突き漁、釣り漁、網漁など様々な漁法が工夫されてきました。
宮崎県の代表的な川魚といえばアユが挙げられます。アユカケ漁には、人が直接川に入って行う方法と舟の上から行う方法があります。
ここでは、県北部の北川での舟で行われるアユカケ漁の様子を再現しています。スイガン(箱めがね)で水中を覗き、サオの先に仕掛けたハリでアユをひっかけます。川の流れがはやい中で、舟を操りながら漁を行うためには経験と勘が必要とされていました。
58カルイ
- 竹の豊富な宮崎県では、割る・削る・編むなどの技術によって、竹を使って様々な道具が作られてきました。
この道具は竹でできたカゴに負い紐を付けて背中に担ぐ運搬具で、カルイと言います。山で農作業をする際、穀物や肥料、小道具などを入れて運びました。このカルイはとても大きい物ですが、落ち葉などの軽い物を一度にたくさん運ぶのに使用されていました。
県北部の日之影町の職人たちが作ったおよそ100点の竹細工と制作道具がアメリカのスミソニアン協会国立自然史博物館に収蔵されています。
59ユデオケ
- ユデオケは約3mの杉板を十数枚使い外側は竹を細く割って作ったたがを数カ所つけて円柱状に締め固め、上にいくにしたがって細くなるように作ってあります。主に繊維作物として栽培された麻などを蒸す時に使われました。
刈り取って葉を落とした麻を束ねて大釜の中に入れ、上からこのユデオケをかぶせます。そして大釜の下から薪を燃やし麻を蒸します。蒸すことで麻の表面が柔らかくなり簡単に皮を剥ぐことができ、防虫にも効果がありました。
ユデオケは他にも紙の原料となるクワ科の楮を蒸す時にも使われました。
60ツキカゴ
- 宮崎県内では過去に日照りによる水不足が何度も起こっていたため、平野部を中心にため池が多く作られました。秋に米作りが終わり水を必要としなくなる頃、ため池では水を抜く池干しが行われました。池にはコイやウナギなどがおり、池干しの時にそれらの魚をこのツキカゴなどの道具で捕りました。
ツキカゴは主にマダケで編まれています。使い方は片手または両手で上から伏せ、カゴの中に魚が入れば、上の穴から腕を入れて魚をつかみ上げます。
このツキカゴは1925年頃に製作され、1972年頃まで県央部の木城町で使用されていたものです。
61里にくらす
- このコーナーは里にくらす人びとの道具やくらしを紹介しています。
県内の平地では温暖な気候と豊富な降水量のもと、稲作が中心に行われ、畑作ではムギ・トウキビ・カライモがよく作られました。作業はすべて人力や牛馬の力に頼っていたため、牛馬の健康を祈る行事を行うなどして大切にしてきました。また、田畑を耕すための道具や草取り・収穫・脱穀などの道具を使って、農作業の効率を高めました。農閑期には稲わらを使って、縄や履物など多くの道具を作りました。
62ミズグルマ
- 宮崎県は降水量が多い地域ですが、過去には何度も日照りがあったことが記録されています。宮崎平野を中心とした水田では、夏の間「ミズグルマ」を使う光景が見られました。
このミズグルマは腰を少し曲げて体重をかけ、羽根と呼ばれる部分を足で踏んで車を動かし、用水路の水をくみ上げます。
1960年代まで水田に水を入れる用具として用いられ電気灌漑に代わるまで揚水作業はこの水車が主でした。米作りに水が不足する時には水田に運びこんで組み立て、日中の強い日差しを避けて、早朝や夕方に作業を行いました。
63田の神様
- 日本人にとって米は毎日の食事に欠かせないものです。米づくりはほぼ一年を通して行われ、里にくらす農家の人々にとって大切な仕事です。里で行われる年中行事は、特に米づくりと深い関係があります。
この石像は「タノカンサア」と呼ばれている、稲の豊作をもたらす神様です。タノカンサアはえびの市など、県西部の地域に多く分布し、水田や小道の上に見られます。
茶碗やしゃもじを持った田の神舞型の他にも、様々な形があります。色がつけられているものもあります。現在でも人々の信仰のシンボルとなっています。
64鴨網猟
- 宮崎市佐土原町巨田池では、鴨を投げ網で捕る伝統的な狩りの方法が現在でも行われています。
これは10分の1の大きさで、1950年代の鴨網猟の様子を再現したものです。
鴨は秋から冬にかけて、越冬のために飛来します。鴨は夕方に池から群れをなして、餌場へ飛び立ち、明け方に池に戻って来る習性があります。池を取り巻く丘の樹木を伐採して、鴨の通り道を作ります。鴨が通過する時に網を投げ上げ、鴨は網にまかれて落下します。
現在は宮崎県と石川県、鹿児島県の3カ所だけに残る貴重な狩猟法です。
65かやぶき屋根
- 宮崎県では今から50年ほど前までかやぶき屋根の民家が多く建ち並び、農作業の閑散期に民家の屋根ふきの光景が見られました。
屋根ふきは、まず杉や竹で組んだ骨組みに、ワラたばなどをしき、その上に水をはじく植物であるススキなどのカヤを上から下に厚く積み重ねます。その後、たたいて長さを整え、刈り込んで仕上げました。カヤは斜めに段々にしきつめてあるので、雨が降っても部屋の中に漏れないようになっています。
博物館の裏で、江戸時代に建てられたかやぶき屋根の民家を実際に見学することができます。
66海にくらす
- このコーナーは、海辺にくらす人々の道具やくらしを紹介しています。
宮崎県の海岸線は南北約200㎞に及び、長い砂浜や入江などを見ることができます。沖合には黒潮と呼ばれる暖かい海流が流れ、多様な生き物を育んできました。ここで行われてきた漁には、船の上から釣針と釣糸を使って餌や擬似針によって魚を釣る釣漁、網を巻いたり網目に刺させたりして魚を獲る網漁、海中に潜って魚介類を獲る素潜り漁などがあります。漁は常に危険と隣り合わせで、人々は航海の安全と大漁を願いながら漁を続けてきました。
67トビ網漁
- 網漁には、魚類の通り道に網を設置して引き上げる定置網や、網を海中で移動させて追い込んだりして獲る底曳網など様々な漁法があります。
ここでは、1700年代から1960年代まで県南部の串間市周辺で行われていたトビ網漁を再現しています。
トビウオは6月頃に沿岸の藻に産卵して、沖に出ます。沖に大きな船が待ち伏せし、陸の方から小さな船が石や棒で海面を叩きながらトビウオを追い込みます。一度の漁で数万尾の漁獲が得られました。現在は観光のトビウオすくいとして親しまれています。
68リュウノカシラ
- 海に生きる漁師は豊かな海の幸を得るために常に生命の危険と隣り合わせの中で、海には竜神様が、船には船霊様が宿ると信じて、これらを祀り大漁と航海の安全を願ってきました。
県南部の日南市油津では秋の十五夜の綱引きで、竜神様のリュウノカシラが登場します。綱の材料はワラで、綱の頭部は稲穂を用いて竜の頭の形に作ります。十五夜の月が出ると子ども達が太鼓に合わせて歌を歌い、綱引きをします。最後にリュウノカシラと綱を神社に納め、リュウノカシラの額の稲穂は船の中の船霊様に祀ります。
69いのりとまつり
- 山・里・海に生きる人々は、神や仏に日々の安らかなくらしを祈り、五穀豊穣・豊猟・大漁を願い、自然の恵みに感謝してきました。
本県では、それぞれの地域のしきたりに従って、決められた場所で祭りや民俗芸能などを行う風習があります。春には豊作の予祝、無病息災を願う行事が行われます。夏には水難除けや悪霊退散の夏祭り、先祖供養の盆行事が行われます。秋には収穫を願う虫追いや、鎮魂のための太鼓踊りが行われます。冬には収穫や平穏な暮らしに感謝する冬祭りの神楽が行われます。
70御神屋
- 宮崎県では現在でも300をこえる地域で、神楽が奉納されています。神楽とは、神をまつるために歌や舞いを行う神事です。神楽には人々の豊作や豊漁や集落の安全を神々に願い、自然の恵みに感謝する気持ちが込められています。
これは県北部にある神楽の舞台を再現したものです。神楽は民家などで行われ、屋外に作られる「外注連」は神々が天から降りて来る際の目印です。また、屋内には「御神屋」と呼ばれる舞場が作られます。三十三番の神楽が夜通し行われます。