展示室のご紹介
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25歴史展示室
- これは今から1万数千年前の宮崎の照葉樹の森でシカを槍で狙っている人々です。人の歴史の始まりです。
歴史展示室は、宮崎県の約2万年前から現代までの歴史を紹介しています。
始まりは狩猟と採集に明け暮れた時代です。古くは日向国とよばれた宮崎県ですが、古文書でその姿を読みとることができます。中世は争いが絶えない時代で、武士の戦いの様子がわかる資料もあります。近世には争いがおさまり、藩が各地域を治めました。明治維新を経て近代になると、宮崎県が誕生し、経済的にも文化的にも発展していきます。
26日向のあけぼのに生きる
- これは宮崎で最古の人々の営みが確認された県中央部にある川南町後牟田遺跡の地層を剥ぎ取ったものです。
県内には過去に巨大な火山の噴火による数多くの火山灰が降り積もりました。その火山灰は年代がはっきりしているため、その上下の地層から見つかった石器や土器の年代を決定する目印となっています。
このコーナーは「旧石器時代」「土器づくりが始まる縄文時代」「米づくりが始まる弥生時代」「古墳時代」に分けられ、これらの時代の土の中から発見されたものを展示しています。
27剥片尖頭器
- 今から約40,000年前から12,000年前までの土器のない時代を旧石器時代といいます。当時は現在よりも約8℃も低い寒冷な気候で、狩りと食料採集によって移動しながら日々をくらしていたと考えられます。
宮崎を代表する旧石器としては、ここにある剥片尖頭器と呼ばれる石器があります。約28,000年前の火山灰の上から見つかります。剝片の木柄を取り付ける部分に両側から抉りを入れて、ナイフや槍先として使いました。朝鮮半島と九州地方に多く分布していますので、朝鮮半島起源と考えられています。
28南九州の縄文時代と土器
- 今から約12,000年前には気候が温暖となりました。人々の生活は獲物を追って移動する生活から定住生活へと変わっていきました。縄文時代は小動物を獲る為の弓矢や煮炊き用の土器が使用され、食生活が豊かになりました。
南九州では貝殻やヘラで土器の表面に文様をつけた物が多く見られます。また鉢形や円筒形以外に壺形や角筒形の土器も見られますが、これは南九州独特の形です。南九州は早期文化の先進地でしたが、約7,300年前の火山の噴火によって人々は一時的な移住などを余儀なくされました。
29花びら形住居模型
- このジオラマは水田による米作りが始まった時代から、古墳時代の初めに、宮崎で盛んに作られていた家です。
上から見ると花の形をしているので「花びら形住居」と呼ばれています。家の床は地面より低く、外側の花びらの部分は中心部より高く作られていて、土壁で隣同士を仕切っています。中心部では家族が火を炊いたり食事をしています。外側の花びらの部分は石器を作る作業場、土器や道具などを置く物置き、またベッドとして利用されています。
このタイプは宮崎や鹿児島に多く見られ、我が国では珍しい形です。
30石包丁
- 宮崎県では、形や文様、粘土の質などが北部九州や瀬戸内地方の物とそっくりの弥生土器が出土しています。
運ばれた土器には、米などを貯蔵する壺や、食べ物を盛る器が多く、その姿を模して作られた土器から、弥生時代には海や山を越えた遠くの地方との交流が行われていたことが分かります。
ここにある石包丁は稲やアワ、ヒエなどの穂を摘むための石器で、通常の穴を開ける代わりに、抉りを入れるタイプです。瀬戸内地方に顕著に分布することから海を介しての交流がうかがえます。
31古墳が語るもの
- 弥生時代の終わりの日本は、小さな国々からなっており、方形や円形などそれぞれの地域独自の墓をつくっていました。全国各地の首長たちによって3世紀後半から約350年間、前方後円墳とよばれる大きな古墳がつくられた時代が古墳時代です。
前方後円墳は、上から見ると円形の主丘に、方形に近い突出部が連結した形です。宮崎県内には、様々な古墳が約4,000基以上もつくられました。中でも県中央部の西都原古墳群や生目古墳群などが代表的な古墳群で、古墳の副葬品から中国や朝鮮半島との交流を知ることができます。
32地下式横穴墓復元模型・地下式横穴墓に葬られたもの
- これは地下式横穴墓の復元模型です。5世紀から7世紀にかけてつくられた古墳です。小丸川より南で多くみつかっている南九州の特徴的なお墓です。
地下式横穴墓は地表から深さ2mほどの竪坑を掘り、そこから横に掘り進んで遺体をおさめる部屋を作ります。遺体をおさめると横穴の入口を石でふさぎ、竪坑を土で埋め戻します。
この4体の遺体は一度に埋葬したのではなく、亡くなる度に竪坑の土を掘りおこし、葬ってきました。これを追葬といいます。
33女狭穂塚古墳
- この模型は県中央部にある西都原古墳群の女狭穂塚古墳の実際の大きさを200分の1に縮小したものです。
5世紀前半に作られ全長は177mあります。九州では最大で全国では48番目の大きさです。日向地域全体を支配する首長の墓といえます。
上から見ると円形の主丘に方形に近い突出部が連結した前方後円墳です。模型の灰色の斜面には全面に石がしきつめられています。白い色の平坦なテラスには模型の奥にある円筒埴輪がめぐらされています。後円部の真ん中には遺体とともに武器・鏡・玉などの副葬品が埋葬されました。
34古代から近世を生きる
- 宮崎県は古くから日向国と呼ばれていました。
このコーナーでは、6世紀から19世紀にかけての日向国の歴史を4つに分けて紹介しています。
まず、「日向国誕生の風景」は、律令制度という法令により国が治められていた時代のコーナーです。次に、「荘園と人々の日常」は、地方の有力者が荘園という私有地を広げていった時代のコーナーです。「戦国期の日向国」は、伊東氏と島津氏が争っていた時代のコーナーです。最後の「日向国諸藩の姿」は、17~19世紀にかけて続いた江戸時代のコーナーです。
35倭名類聚抄
- 倭名類聚抄は、日本で最も古い辞書です。9~10世紀にかけて作られた物です。漢字の読みや意味を載せています。
また、多くの言葉の説明を載せ、百科事典の要素も含んでいます。
当時、朝廷は、全国を「国・郡・里」に分け支配しました。このことも、「倭名類聚抄」に載っています。日向国にも、臼杵・児湯・那珂・宮崎・諸県の5郡が置かれました。郡には、役所を置き支配しました。
ご覧の展示は日向国の部分で、5つの郡の名前が書かれています。その中でも、臼杵や児湯、諸県は、今でも使われている地名です。
36日向国図田帳
- 8世紀から日本各地に荘園と呼ばれる私有地が増えていきました。
「日向国図田帳」は12世紀に鎌倉幕府の命令で作成された土地台帳です。日向国図田帳には日向国内にある荘園の所有者や土地の面積などが細かく記録されています。
この資料から日向国における荘園制度を知ることができます。日向国では荘園の数がどんどん増え、12世紀になると荘園の面積は日向国の約9割を占めました。日向国は全国的に見ても荘園の多い地域でした。日向国図田帳は、完全な形で残っているものとしては最も古く貴重なものです。
37高城陣構図
- 4世紀から16世紀にかけて、伊東氏と島津氏は日向国の領地をめぐり戦ってきました。
しかし、1572年に起きた戦いで島津氏が勝利しました。そこで伊東氏は日向国の北にある豊後国の大友氏を頼りました。大友氏は伊東氏の領地の回復を名目に、日向国に兵を進めました。そして1578年、島津氏と大友氏の戦いが起こりました。
「高城陣構図」はその戦いでの両軍の配置図です。赤が島津軍、青が大友軍を示しています。この戦いでも島津軍が勝利します。両軍合わせて約1万人の戦死者が出たといわれています。
38国絵図
- 江戸幕府は、全国を支配するために日本地図を作成しました。
正面の大きな地図は、慶長の国絵図で、17世紀前半のものです。現在の宮崎県にあたる地域を描いており、東西118cm、南北289cmもあります。
この地図は、日向国の延岡藩と髙鍋藩が協力して描き、幕府に提出したものです。地図には、日向国にあった城を描き、延岡藩と髙鍋藩の村の名前を書き込んでいます。赤丸が延岡藩、白丸が高鍋藩です。
39日本持丸長者集
- 17世紀になると、全国的に物資の流通が盛んになり、商業が発展しました。
こちらに展示されている日本持丸長者集は、日本で活躍した商人の大富豪ランキングです。19世紀前半に作成されました。ランキングの高い商人ほど上に書かれています。
パネルに拡大した資料の橙色で示されているのが日向国の商人です。小田清兵衛と太田内蔵兵衛の名前が書かれています。小田清兵衛は木炭、太田内蔵兵衛は和紙を扱っていた商人です。
このように、日向国でも各地で特産物がつくられ、商業が発達していたことが分かります。
40錦の御旗
- 19世紀に旧幕府軍と新政府軍との間に戦いがありました。これを戊辰戦争といいます。佐土原藩は、新政府軍につきました。各地を転戦した佐土原藩は、東北まで遠征し、めざましい働きをしました。
この錦の御旗は、その際に佐土原藩が天皇からいただいたものです。この旗の大きさは、縦354.5㎝、横65.0㎝です。錦の御旗は天皇の旗であり、敵を討つ正当な軍であることの証として用いられました。
戊辰戦争に勝った新政府は、その後、天皇を中心とした近代国家を建設していくこととなります。
41西南戦争の錦絵
- この錦絵は1877年西郷隆盛率いる西郷軍と政府軍が戦った西南戦争の戦いの様子を描いたものです。
宮崎の人々は多くが西郷軍に参加し、資金や物資を提供しました。しかし西郷軍は敗れ、人的、経済的に大きな被害を受けました。戦後、宮崎県は鹿児島県に属しているため復興が進まず、不満を持った人々が宮崎県の再置を求める分県運動を始めます。粘り強く運動を続け1883年宮崎県が再び置かれ、現在まで続いています。
42発展し続ける宮崎
- ここからのエリアは「宮崎県の誕生と発展」「戦争と宮崎」「戦後の復興と発展」の3つのコーナーに分け、1860年代から約100年間の宮崎県を紹介しています。
「宮崎県の誕生と発展」は、宮崎県の誕生と近代化がテーマです。西南戦争等を経て1883年に宮崎県ができ、1900年代には交通網や学校が整備されました。「戦争と宮崎」は、1940年代の戦時統制下の生活を灯火管制下の住宅内部の復元などにより紹介しています。「戦後の復興と発展」は、1950年代の住宅を移築し、同時代の子供の遊び場を再現したコーナーです。
43日豊南線工事一覧
- 再置後の宮崎県では近代化が進みましたが、天然資源や特産物に恵まれながら生かせていませんでした。1911年に赴任した有吉忠一知事は、農林水産業・教育・文化など多方面で多くの事業を展開しました。鉄道は県の予算で敷設し、1923年に県内を縦断する日豊線が全線開通しました。
この資料は日豊線のうち南線(宮崎・延岡間)建設の際の工事記録です。日豊線の開通により特産物の流通や人の往来が促され、他県との経済・文化の交流が進みました。
44千人針
- ここでは主に1940年代の太平洋戦争下での宮崎県の人々のくらしについて紹介しています。
当時は、戦時統制下にあり、食料や物資は配給制でした。戦時下の教育に変わり、人々は働き手の確保などの目的で動員されました。
資料は「千人針」と呼ばれる白布です。戦地に向かう兵士に弾よけのお守りとして贈りました。出征兵士に縁故のある女性が近所や街頭で女性に頼み、白布に赤い糸で一人一針ずつ縫ってもらい、千個の縫い玉が完成したものを腹巻きとして使いました。
45文化住宅
- これは1950年代に建てられた「文化住宅」と呼ばれる住居の一部です。宮崎市内に建っていたものを博物館に移築し、当時の生活の様子を再現しました。
家の中に入ると台所に「かまど」があり、主食の米を炊きました。畳が敷かれ靴を脱いであがる居間は、中央にある木製のテーブル「ちゃぶ台」を囲んで食事や家族団らんの場所でした。部屋は廊下で結ばれ、外側には縁側と呼ばれるスペースがありました。その他、寝室、風呂、トイレがあります。
当時は水道の設備が不十分で、家の外にある井戸の水を使っていました。
46リカちゃん人形
- ここは時代の広場です。1950年代の子ども達の遊び場を再現しています。テレビゲームなどがない時代だったので、子ども達はこのような広場に集まって色々な遊びを楽しんでいました。
壁沿いには1960年代からの高度成長期に子ども達が遊んでいた玩具や模型を展示しています。
このリカちゃん人形は、1967年に発売されました。当時人気を誇っていたバービーなどの西洋人形と違い、日本人の面影を残す少女の顔をしています。また、固有のプロフィールを持つことが、子ども達に親近感を与え、女の子達の心を掴みました。
47日向の群像
- 「日向の群像」コーナーでは、宮崎県出身で県内外で業績を残した偉人たちを紹介しています。
まず、安井息軒は19世紀の我が県を代表する儒学者です。次に高木兼寛は海軍医として脚気問題に取り組み、ビタミン発見に貢献したことからビタミンの父と呼ばれています。小村寿太郎はポーツマス条約の締結や関税自主権の撤廃に尽力した外交官です。外務大臣も務めました。石井十次は児童福祉の父と呼ばれ、孤児院をつくるなど、児童救済に尽力しました。最後に若山牧水は旅、自然、酒を愛した歌人です。