発展しつづける宮崎
- 近・現代の宮崎は、社会のしくみや人々の生活が大きく変化した激動の時代でした。ここでは、この時代を3つに分け、当時の文章や写真・映像・模型を使って分かりやすく紹介しています。
また、時代に関係なく1つのテーマで構成する「テーマ展示」や宮崎県ゆかりの人物を紹介する「日向の群像」のコーナーもあります。
全国的に分県運動が高まるなか、1880(明治13)年頃から宮崎県の再置を願う人々の運動が活発になりました。県会議員の川越進や藤田哲蔵を中心に分県運動が展開されましたが、嘆願書が却下されるなど、簡単には実現しませんでした。川越らはその後もねばり強く運動を続け、ついに議会で分県が承認され、1883(明治16)年5月9日宮崎県が再置されました。
召集令状
戦争に召集されるときには赤い紙が使用され、通称「赤紙」とよばれました。この資料は田野町の河野ヤエ氏が旧満州国のハルピンへ看護婦として召集されたときのもので、1941(昭和16)年11月18日に日本赤十字社宮崎支部から発行されています。
写真は現地から持ち帰った、ハルピン第7部隊宮崎284救護班の兵士・看護婦たちと看護婦の勤務ぶりを示したものです。
昭和30年代の文化住宅と広場
この住宅は、宮崎市内にすむ一般的な文化住宅を復元したものです。父と母、娘2人の4人家族です。
日向の群像
小村寿太郎・石井十次・若山牧水
幕末ごろの日向国諸藩の財政は窮乏し、倹約令や産業の奨励に力を注ぎました。しかし、効果はあがらず、藩士への家禄などを削減し、佐土原藩では半分以上を、飫肥藩でも3分の1を削減しなければならないほどの苦しい藩の財政でした。
藩士たちのその苦しみは、のち、討幕運動にまで発展していきます。
- 見どころ
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SP盤をきいてみよう
昭和17~18年頃の宮崎の観光案内を録音したレコードで、宮崎市内から日南海岸沿いの観光ルートを紹介しています。このSP盤は昭和初期に宮崎バス株式会社のバスガイドによって吹き込まれたものです。
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昭和30年代住居
昭和も遠くなり、しかも30年代からはすでに50年も経ています。日本が高度経済成長へとすすむ頃、文化包丁、文化薪などと共に文化住宅をもてるようになりました。
これは地方サラリーマンの一般的な住宅模様を表現したものです。 -
昭和時代のおもちゃ
昭和40年以降に子どもたちが遊んでいたおもちゃを展示しています。大人のみなさんにとってはとても懐かしいおもちゃがあるはずです。
もしかすると、あなたの持っていたおもちゃと同じ物があるかもしれませんよ。