展示情報
公開中の遺物
八幡遺跡(都城市)
八幡遺跡は都城市の市街地中央、大淀川右岸の台地上の標高約145mに立地します。
発掘調査の結果、近世から現代にわたる建物跡や溝状遺構、土坑、ピット(柱の穴)、井戸跡などがみつかりました。遺物は16~20世紀代のものを中心に、陶磁器(中国産・国産)・瓦類・土器・ガラス製品・金属製品など数万点におよんでいます。近世都城の城下町を記した絵図「庄内地理志」によると、この場所に武家屋敷があったことがわかりました。遺構の中でも階段を持つ3号土坑や井戸跡、おびただしい数の瓦・陶磁器が出土した5号土坑などは、出土遺物の年代から武家屋敷に関連する遺構だと考えられています。
小迫遺跡
小迫遺跡は、都城市の中心部から南に約11㎞の梅北町にあり、鹿児島県との県境付近に延びる丘陵の尾根筋に位置します。
発掘調査の結果、後期旧石器時代と縄文時代や古墳時代~中世の遺構や遺物が確認されました。
特に、後期旧石器時代から縄文時代草創期(13,000年前頃)へと移り変わる頃の土器や石器、縄文時代早期(8,000~9,000年前)と縄文時代中~後期(2,000~3,000年前)の集落跡が発見されたことは、都城盆地の歴史や文化を明らかにしていくうえで、重要な成果といえます。
保木島遺跡
保木島遺跡は、都城市の中心部から南に約8kmの梅北町に位置し、都城市の南東部にある金御岳(標高472m)よりのびる丘陵の尾根筋から谷に向かう傾斜地にあります。
発掘調査の結果、縄文時代(早期、後期~晩期)と古代~中世の遺構、遺物が確認されました。縄文時代早期では、竪穴住居跡や集石遺構、炉穴、陥し穴状遺構、土坑などの遺構がみつかりました。遺物は、出土例の少ない耳栓(耳飾り)のほか、西北九州産のガラス質安山岩でつくられた打製石鏃などが数多く出土しました。また、妙見式土器がまとまって出土する例は少なく、貴重な発見となりました。
花木池平遺跡
花木池平遺跡は、都城盆地北東縁に位置し、都城市街地から北東に約12㎞、東岳川及び佐土原川流域に形成された標高約168mの河岸段丘上に位置しています。
調査の結果、江戸時代の水田遺構、古代の掘立柱建物跡、溝状遺構、畝状遺構、古墳時代の竪穴建物跡、土坑、溝状遺構、縄文時代後期の土坑及び自然流路を確認することが出来ました。古墳時代の中期~後期にかかる竪穴建物跡が6軒、その近隣で溝状遺構も確認されたことから、長い間定住する生活に適した地域であったことがうかがえます。遺物については古墳時代を中心に、縄文時代から近世までの幅広い時期の遺物が出土しました。
大岩田上村遺跡・畑田遺跡
大岩田上村遺跡は、大淀川とその支流の梅北川に東西を挟まれた標高150~170mの平坦なシラス台地上に立地し、川面との標高差は約15mです。
発掘調査の結果、旧石器時代から中世にかけての遺構・遺物が確認されました。中でも都城市で出土例の少ない旧石器時代の細石刃石器群の出土は、都城盆地における人びとの活動を考える上で重要です。
畑田遺跡は、横市川左岸標高約150mの月野原台地南端部にあります。
発掘調査の結果、15世紀後半に降った火山灰(桜島文明軽石)に覆われた中世の水田跡が確認されました。水田跡は全部で13枚あり、その表面には農具で耕した跡と思われる凸凹が全面にみられます。また、高低差が2mほどある地形に合わせた区割りを行い、水がどの水田にも流れ込むよう自然地形をうまく利用してつくられていたことがわかりました。
樺山・郡元地区遺跡
樺山・郡元地区遺跡は、都城市と三股町の境、標高約162mの台地にあります。
発掘調査の結果、掘立柱建物跡、溝状遺構、道路状遺構、土坑墓、井戸跡などの遺構が確認されました。遺物は、土師皿や坏のほか、中世の輸入陶磁器(青磁、白磁、染付)や国産陶磁器(東播系捏鉢、渥美焼、常滑焼など)が数多く出土しています。遺物の時期は12世紀~16世紀と幅広いですが、その大半は15世紀代のものです。
竹ノ内遺跡
竹ノ内遺跡は、清武町内を東に向かって流れる清武川右岸の標高約60mのシラス台地のへりに位置しています。町内の川沿いには河岸段丘が発達し、台地の崖面には、わき水がみられ、遺跡立地の好条件が備わっています。町内の遺跡の大半はこの段丘面に形成されています。
本遺跡は、一般県道清武インタ一線道路改築工事に伴って調査が行われました。旧石器時代、縄文時代早期・後期・晩期、弥生時代、古墳時代、古代、中世、近世にまたがる複合遺跡でした。
調査の結果、本遺跡は長い期間の人間の営みの中で縄文時代後期に最盛期があったと考えられます。各時代に多数の遺構を検出し、遺物量はコンテナ667箱も出土した県内有数の遺跡です。遺物の中には、岩偶、石偶、土偶やサンゴやヒスイでできた装飾品など県内でも報告例の少ない貴重な遺物が出土しています。
長薗原遺跡
長薗原遺跡は宮崎市と西都市、国富町の3 市町村の境界近くの遺跡です。東西に3 ㎞ほどびた標高約90m の台地の東端から500m ほど離れた台地の上にあります。
調査の結果、遺構は縄文時代早期の集石遺構や炉穴、陥し穴状遺構が確認されました。陥し穴状遺構とは、動物を捕まえるために使われた穴のことで、深さは1m を超えるものもあります。その底に小さな穴がみられることもあり、これは陥し穴に落ちた動物の動きを止めるため棒のようなものを挿した跡だと考えられています。長薗原遺跡の陥し穴状遺構には、この小さな穴に10 個近くの石が入っていたものもあり、挿(さ)した棒の位置を調整もしくは補強するために石を使ったのではないかと考えられています。
遺物は旧石器時代の石器が数、種類ともに多くみつかっています。石器が出土した場所は、遺跡の中でも限られた場所に集中しており、当時の人々の生活のようすを考えるうえで重要な情報です。
学頭遺跡(がくとう)
学頭遺跡は宮崎市高岡町の遺跡です。大淀川の支流である江川と瓜田川に東西をはさまれた、標高約14mの微高地上にあります。
発掘調査は4か年6回に分けて行われました。ひとつひとつの調査範囲は狭く、遺跡全体の様子をつかむことは出来ませんでしたが、縄文時代から中近世にかけての遺物・遺構が確認されました。
特に弥生時代から古墳時代初頭の時期と思われる土器が数多く出土し、同時期の遺構も大型溝状遺構(断面V字形 幅約2m 深さ約1m)や竪穴住居跡などが確認されています。
下大五郎遺跡
下大五郎遺跡は都城市を流れる丸谷川沿いの、標高約140mの河岸段丘上にある遺跡です。
発掘調査の結果、弥生時代後期を中心とする遺跡であることがわかりました。遺構は、花びらのような形をした花弁状住居を含む竪穴住居跡や、屋根の一番高い位置にある棟木を両側から支える棟持柱を持つ掘立柱建物跡などが確認されています。
遺物は竪穴住居跡から弥生土器が多く出土していますが、中には住居跡の一角に8 個の完形に近い長頸壺が集まった状態でみつかるなど、他の住居跡とはちがった出土状況も確認されています。